赤川次郎『三毛猫ホームズの追跡』

三毛猫ホームズの追跡 (角川文庫)

三毛猫ホームズの追跡 (角川文庫)

リハビリ第二弾、シリーズ第2作の『追跡』です。初出は1979年。
前作で心に傷を負った晴美の就職先で連続殺人事件が起こるという話。あんまり引きずっていないようにも思えますが、そういう軽さも三毛猫ホームズシリーズならでは。ホームズは本格的に片山家の住人になり、さらに晴美に一目ぼれする肉体派刑事、石津が初登場。
今回のメイン・トリックは1979年ならではというか、今でも通用しないことはないものの、やはりピンと来ないですね。当時の最先端科学技術を応用したトリックということで、そんなものは5年もすれば時代遅れになってしまうわけです。まあ、こういう大衆ミステリなので全然OKなんですが。
しつこいようですが、最新科学技術でトリックを量産する島田荘司の「21世紀本格」なんかも有効期限は10年といったところではないでしょうか。深い人間社会の考察や人間心理の意外性に基づいた推理でなければ長きに渡る観賞に耐える傑作にはなりえないでしょう。
それはともかく、『三毛猫ホームズの追跡』は、やっぱりお約束満載でストーリーの展開から何から『三毛猫ホームズの推理』のカーボンコピーのようであります。あと無駄に人死にすぎ。あまり今読まれうる要素は少ないのではないかと思われます。(★★)

赤川次郎『三毛猫ホームズの推理』

2年ぶりの更新です。その間、ほとんどミステリを読んでいません。一体何をしていたのか・・・生活環境はあんまり変わっていませんが、ミステリへの情熱はやはりまだ薄いようです。リハビリのために、原典回帰をしてみようと思いました。

三毛猫ホームズの推理 (角川文庫)

三毛猫ホームズの推理 (角川文庫)

いわずと知れた国民的大衆ミステリシリーズの最初の作品です。私がこれを読んだのは多分小学校高学年のときだったと思います。今見るとベタな恋愛に当時は大人の匂いを感じて背伸びをしていたのでしょう。
赤川次郎は当時大変なブームで、「セーラー服と機関銃」「時をかける少女」など映画とリンクした角川の猛プッシュで知られていました。メディアミックスの走りでしょうか。しかし彼の本格ミステリ作品の映像化は、よく考えると少ないかもしれないですね。「三毛猫ホームズ」シリーズも、かつて何度か2時間サスペンスになっていたのを思い出しますが、ドラマは長期シリーズにはなりませんでした。
さて、思い出話はこれくらいにして中身ですが、意外と覚えているものですね。猫が探偵役、という斬新なキャラクター設定はやっぱりすごいと思います。三毛猫ホームズのキャラ立ちは異常。30年経っても全然色あせないです。
一方、片山兄妹とホームズのキャラが立っていれば、あとはステレオタイプの人物を配置して連続殺人してできあがり、というお手軽さ、数々のお約束などドラマ中心のミステリファン安心のクオリティが、大衆ミステリたるゆえんでしょうか。
ただ、このシリーズ第一作は密室トリックが光っています。島田荘司もびっくりの大胆豪腕トリックには明らかな本格スピリットがあります。発表年が1978年だから、幻影城と同じくらいか。やっぱり新本格のひとつの源流であり、偉大な先輩なのではないかなあと思いました。人間の2次元脳では死角に入る3次元トリックといいますか。
あれ?でもこのトリック、結構その後の作家さんたちが応用して使っているような気がしますね。島田御大とか有栖川とか。天城一の密室トリック分類にも当てはめにくい、実に「新本格」らしいトリックといえましょう。
執拗などんでん返しも、お約束とはいえ気合が入っているし、主人の敵をとるために奔走するホームズの姿も第一作ならでは。リハビリにもってこいの一作でした。(★★★☆)

近況報告

  • 気がつけば11月。ネットやブログの更新が全くできないのは、時間的な余裕がないのと、精神的な余裕がないのと、ブログ更新への執着が薄れてしまったせいです。よくある話ですが、私にもそんな症状が現れました。また時が来れば、更新の日々に戻ることもあるでしょう。しばらくこんな感じですので、生暖かくスルーしてやってください。
  • そろそろ年間ベストの話題が来る季節ですが、今年は全然ミステリが読めていません。図書館をよく利用していたので、お金がないのは言い訳にならず、ミステリへの関心が薄れてきたのだと思います。
  • 山田風太郎のミステリを何作か読みました。『十三角関係』は歴史的大傑作! 『誰にもできる殺人』も凄すぎる! 『明治断頭台』も楽しめたけど、その2つに比べたら落ちるかな。
  • 北方先生のせいで盛り上がった人生2度目の三国志マイブームは、まだ続いております。蒼天航路おもしろい。
  • 母校・熊本大学体育会吹奏楽部、全国大会銀賞おめでとう!

北方謙三『三国志』第10・11巻

三国志〈10の巻〉帝座の星 (ハルキ文庫―時代小説文庫)

三国志〈10の巻〉帝座の星 (ハルキ文庫―時代小説文庫)

三国志〈11の巻〉鬼宿の星 (ハルキ文庫―時代小説文庫)

三国志〈11の巻〉鬼宿の星 (ハルキ文庫―時代小説文庫)

 関羽の死を皮切りに、曹操張飛劉備といった三国志の顔とも言うべき英雄たちが次々に死んでいく。英雄たちの死に様を淡々と、それでいて思いいれたっぷりに書き込んでいくのは、『水滸伝』でもそうだったが、北方謙三の持ち味が存分に発揮される場面だ。
 特にドラマティックだったのは張飛の死だ。『演義』ではお堅い劉備とまじめな関羽の引き立て役、暴れん坊の大酒のみというあまりにも可愛そうなキャラ付けがなされる張飛は、死の場面でも『演義』では本当にあっさりと死んでしまう。こんなつまらん死に方でいいのかと開いた口がふさがらないほど、『演義』は張飛に対して冷淡だ。しかし北方三国志では、張飛は、実は「仁義の人」劉備のミスを全て自分が引き受けるために、わざと暴れん坊の道化キャラを引き受けたことになっている。その結果、表向きは乱暴者だが、その実冷静沈着で優しさや人間としての強さを内に秘めた、完成された人間としての張飛、というキャラクターが演出される。それだけにその死の場面も、周瑜の愛人という重要なオリジナルキャラクターを絡めることで、卓抜した人間ドラマとなった。
 このグッと来る演出の前には、むしろ呂布関羽の死の場面はあっさりしすぎたと感じられるほどだ。
 続く夷陵の戦いでは、『演義』ではまだまだ出番が残されているはずの関興張苞までもが戦死してしまい、結局残された蜀の英傑は孔明趙雲だけになってしまう。物悲しさを感じさせるとともに、残り2巻で描かれる孔明の北伐の苦難を想像させる展開である。

北方謙三『三国志』第8・9巻

三国志〈9の巻〉軍市の星 (ハルキ文庫―時代小説文庫)

三国志〈9の巻〉軍市の星 (ハルキ文庫―時代小説文庫)

 8巻の文庫版、はまぞうにないなあ。
 第8巻は劉備の入蜀。個人的に好きだった厳顔将軍の活躍がなくて寂しい。その代わり馬超が主役級の活躍で嬉しい。
 北方解釈で面白かったのが、益州侵攻軍の構成が、なぜホウ統・黄忠といったいわば二番手で、主力の孔明関羽張飛趙雲は残したのかという問題について、五斗米道張魯の脅威におびえた劉璋劉備に援軍を頼んだゆえの益州入りなので、できるだけ劉璋に警戒心を起こさせないために、高名な軍師や将軍を引き連れることを避けたという話筋だ。荊州留守の関羽はともかく、なぜ孔明張飛が行かない? とかねがね思っていたので、疑問が氷解した思いだ。
 第9巻は漢中攻防戦、そして関羽麦城に落つ。孔明の「戦略」がずばり嵌りまくって、一気に長安を落とせる位置まで蜀は勢力を広げる。荊州関羽が行動を起こすことで、曹操は全く身動き取れない状態になる。これが「戦略」の力かと興奮。
 『演義』では戦場での兵略に軍師の活躍の場が与えられていたが、北方三国志では、むしろ優れた軍師は「戦略」を立てることで圧倒的劣勢を挽回し、天下を目指すという描き方をしている。北方謙三は、一見地味ではあるがスケールの大きなやり方で、孔明の凄さをまざまざと見せ付けている。大戦略孔明に対抗できるのは、おそらく周瑜くらいのものだろう。周瑜が死んでしまったので、この時点では孔明の独壇場だ。しかし孔明の戦略を打ち崩し、関羽を追い詰めたのは、魏の新世代の軍師・司馬懿仲達の「戦略」であった。
 北方謙三はこのように、「戦略」という『演義』ではほとんど重視されていない要素を中心に据えることで、新しい魅力を描き出している。以下の巻では孔明と仲達との戦略家同士の戦いが繰り広げられることに期待。

北方謙三『三国志』第6・7巻

三国志 (6の巻) (ハルキ文庫―時代小説文庫)

三国志 (6の巻) (ハルキ文庫―時代小説文庫)

三国志〈7の巻〉諸王の星 (ハルキ文庫―時代小説文庫)

三国志〈7の巻〉諸王の星 (ハルキ文庫―時代小説文庫)

 第6巻は荊州編。孔明の出蘆〜曹操の南下〜長坂の戦い。第7巻は赤壁の戦い
 やはり『演義』での印象的なエピソードはかなり排除されている。劉備髀肉の嘆、凶馬的盧、趙雲が守った阿斗を劉備が放り投げるシーン、孔明の大論陣、東南風を祈る孔明、華陽道で関羽曹操を見逃す場面などなど。
 これらのエピソードを排除する代わりに印象に残ったのが、周瑜の扱いだ。『演義』では魯粛とともに孔明の引き立て役に甘んずる周瑜だが、北方三国志では孔明に並び曹操をも凌ぐ時代を代表する戦略家として描かれている。孔明の「天下三分の計」に対抗する周瑜の「天下二分の計」は、『演義』では夢物語のように語られる程度だが、北方三国志では三国時代とは異なるオルタナティヴとして重要な地位を与えられている。
 確かに荊州の北半分を呉が領し、劉備と同盟を結んだ周瑜からすれば、益州制圧は時間の問題だった。劉備周瑜、どちらが先に蜀を取るかによって、三国時代ではなく南北朝時代になっていたかもしれない。周瑜が若くして死に、孔明の勝利が決まった瞬間はまさしく「その時歴史が動いた」のだろう。北方は周瑜の重要性を大きくすることで、歴史小説としてのダイナミズムを生み出したのである。娯楽小説としての面白さは『演義』に譲るが、歴史小説としては北方に軍配が上がるだろう。

小林多喜二『蟹工船』を読みましたよ

蟹工船・党生活者 (新潮文庫)

蟹工船・党生活者 (新潮文庫)

蟹工船 一九二八・三・一五 (岩波文庫)

蟹工船 一九二八・三・一五 (岩波文庫)

 社会現象的ブームになっているという『蟹工船』、家にあったので読んでみました。岩波文庫版です。売れているのは新潮文庫版らしいです。
 とりあえず一気読みの面白さでした。劣悪な条件で死に直面するほどの過酷な労働を強いられている蟹工船の労働者たちが、「殺される」以外に選択肢がないところまで追い詰められた末に、ストライキを実行するに至る過程を描く、まがう事なきプロレタリア文学です。
 とにかく読ませる。雑夫たちが狭く汚い空間に押し込められて何とか生きている様は思わず顔をしかめたくなるリアルさがありますし、資本主義の搾取する者の権化とも言うべき「監督」に対して、つもり積もった恨みや不満をいつ彼らが爆発させるのか、ぎりぎりのところまで忍耐を迫られる描写には、読んでいるこっちがドキドキするような切迫感があります。
 よく言われるように、『蟹工船』が現在のワーキングプアの環境と重なり、共感が広がる中でブームが起きているというのは、実際にこの本を読んでみればよく分かります。確かに『蟹工船』で直接ピストルを振り回すような「監督」は、現代日本ではありえないし、国家と資本家が結びついているといっても、軍国主義ではないのだから軍と資本家が結びつく『蟹工船』の状況と今とは訳が違います。また、国際環境についても、ソ連が産声を上げ万国の労働者に希望を与えた1920年代と、冷戦が資本主義陣営の「勝利」によって終焉しソ連に対する労働者の幻滅が広がった現代とでは全く違います。
 では、『蟹工船』のどこに現代性があるのか。言い換えれば、時代性にとらわれない普遍性がどこにあるのでしょうか。
 小林多喜二共産党員で戦前に拷問によって殺害された正真正銘の社会主義運動家です。私が興味深かったのは、だからといって『蟹工船』がソ連共産主義イデオロギーに染まっただけの作品ではなく、彼なりの社会主義運動のあり方が書かれた小説だったことです。
 それはストライキの最終局面です。もしソ連共産党プロパガンダ小説であれば、少数の指導者によるストライキが成功して幕を閉じるところですが、この小説では指導者によるストライキは失敗し、労働者はさらなる苦難を経験した結果として、誰を指導者とするのでもない集団的行動によってストライキが成功する、という結末を迎えます。
 要するに高度に発展した資本主義の支配=搾取関係から労働者の団結・連帯が必然的に発生するというプロセスを描いたということです。蟹工船の労働者にとって、共産主義イデオロギーなどはきっかけに過ぎず、現場での過酷な死に至る労働をなんとかしなければならないという、切実な生存要求こそが状況を打破する可能性を与えるのだ、と私は読みました。
 そこにこそ、時代にとらわれない『蟹工船』の普遍性があると思います。
 しかし逆に言えば、そこまで過酷な状況まで追い詰められなければ現状を変えることはできないのか、とも思います。今『蟹工船』がワーキングプア層の共感を呼んでいるとのことですが、共感を呼ぶほど現状が酷いということです。本当はそんな状況が来る前に何とかしなければならなかったでしょう。新自由主義の弊害がどれだけ言われても、ナショナリズムの幻想に踊らされ続け、小泉内閣を支持し、大企業の歯車を余儀なくされ、社会保障が削り取られ、社会的に切り捨てられる人が増え続けました。しかしそろそろ、「社会」の価値を重視する左向きの振り子が働いてもいいはずです。
社会 (思考のフロンティア)

社会 (思考のフロンティア)