日常と非日常

米澤穂信クドリャフカの順番―「十文字」事件』は「日常の謎」ミステリとして分類される。理由としては殺人事件が発生しないというところに帰せられる場合が多いが、殺人事件が発生しないケースをすべて「日常」というくくりで纏めてしまうことには違和感がある、このような分類に意味はあるのか、という意見をWandererさんが述べていらっしゃった。
参照:2005-07-14
まったく同感ですが、そもそも「日常の謎」というジャンルを開拓したとされる北村薫さんの『空飛ぶ馬』自体、あまり日常的とは言いがたい事件を取り扱った短編集だったと思います。殺人事件を扱わないミステリーはホームズをはじめとして古今東西たくさんありました。ではそれらの先行作と比べて、北村薫加納朋子米澤穂信の作品が「日常の謎」ミステリとして認識される理由はあるのでしょうか。
突き詰めれば、質的な差異はほとんどないように思われます。しかしそれにもかかわらず我々が彼らを「日常の謎」と呼ぶ理由は、どうも作者や作品の側にあるのではなく、読者の側にあるのではないかという気がします。
海外作品であればどんなに牧歌的で日常的な事件が取り扱われようとも我々はそこに「非日常」を見出してしまうでしょう。また、江戸時代や大正時代を扱った殺人事件のないミステリもありますが、それらにも我々は「非日常」を見出します。つまり、現代日本に生きる我々読者の時間的空間的感覚的連続性の上に立っているということが、「日常の謎」という作品カテゴリーの特質なのではないかと思うのです。
まとめると、「日常の謎」ミステリーには、読者の生活世界と作品の生活世界との一致と、犯人の行動における正常性の担保が必要、ということではないか。『クドリャフカの順番』の舞台は我々が体験したくても出来ようもない理想的な祝祭の日々ですが、我々はそこに容易に現実世界との連続性を見出します。セイヤーズ『学寮祭の夜』の舞台にそうした連続性を見出すことは出来るでしょうか? 難しいのではないかと思います。