フェアかアンフェアか

久しぶりにネットを見ると、安眠練炭氏がきたろーの感想についてコメントをつけてくださったので、一応リアクションをしておきます。
安眠練炭氏の意見をまとめると、きたろーが「アンフェアだ」と述べた『五つの時計』所収の「愛に朽ちなん」「二ノ宮心中」「急行出雲」の各編については、著者の鮎川哲也氏が「読者が作中の探偵役と推理力を競い合うことを意図したミステリではない」ので、アンフェアではない、ということになります。
きたろーが思うに、本格ミステリの最大の楽しみは、不可解な謎に対して回答が示されたとき、「ああ、そうだったのか!」と思わず膝を打つ感覚、きたろーが感想の中でよく使う言葉では「腑に落ちる感」にあります。問題となっている3編についてはその「腑に落ちる感」が弱かったと思いました。なぜなら推理のために現代の一般常識の外にある特殊知識が必要であり、かつその特殊知識が事前に提示されていないので、「腑に落ちる感」よりも「そんなこと知らないよ!」という思いが先にたってしまったからです*1。この感覚を称してきたろーは「アンフェア」という言葉を用いました。
本格として優れているか否かを判断するときに、上のような意味で「アンフェア」ならば、きたろーの個人的な評価は下がらざるを得ません。鮎川氏がこれらの3編を推理ゲームとして書いたかどうかは、その際問題ではありません*2
本格ミステリとして読むならば、どれくらいの「腑に落ちる感」を味あわせてくれるかがひとつの重要なポイントになります。その場合にのみ、上のような意味で「フェア」か「アンフェア」かという問題が浮上することになります。
しかし私が感想を書き、小説の評価を下す際の指標はもちろんそれだけではありません。事実、「急行出雲」については「アンフェア」だと述べつつも他の特長を挙げて面白いと書きました。フェアプレイ以外の要素によって私が傑作だと思う本格ミステリはたくさんあります。
ミステリを読む際、フェアプレイ以外の要素としてきたろーが重視することは、例えば、意表をついたサプライズ、重厚な筆致、問題領域に対する深い洞察、ミステリというジャンルに対する自己言及の程度、他の著者には見られない面白い構図や発想などなど、枚挙に暇がありません。
フェアプレイであるか否かは、本格を読み評価を下す際のひとつの指標だが、それだけで作品の価値が決まるわけではない、というのがきたろーが感想を書くスタイルです。その点だけは知っておいていただきたいと思います。

*1:ただし、「愛に朽ちなん」に関しては、発表当時には常識的な知識だったとも思われるので、アンフェアにというには不当だったかもしれない。

*2:ところで、作者が本格ミステリを推理ゲームとして書いたか否かを、何をもって判断すればいいのだろうか。真相を説く手がかりが作中に提示されていない場合は「推理ゲームとして書かれていない」というならば、最後まで読まなければ読者は作者の姿勢を知ることが出来ず、またフェアプレイか否かは本格ミステリの価値にとってどうでもよくなってしまう。だから私は、真相を最後まで読んで「なるほど!そうだったのか!」と思わせてくれればそれでよく、「アンフェア」であることがその感覚を妨げているのであれば、そのことを感想で指摘することにしている。その際、作者がどのような姿勢で作品を書いているのかについて思いをめぐらすことは、私の本格ミステリの楽しみ方からは逸脱している。