小説における教養のメリット

趣味の世界とは究極的には個人の世界なので、その人がジャンルの先行作を読むかどうかというのは結局は個人決定のレヴェルでしかないと、基本的には思います。しかし個人に教養主義を薦めるのではなく、教養主義の正否そのものを語ろうとするのであれば、個人の世界を越えた主張は正当性を獲得します。
ここでは小説における教養主義のメリット・デメリットについて覚書を残しておきます。
まず、まったく新しいジャンルならともかくとして、小説のそれぞれのジャンルには蓄積された歴史があり、その歴史的土台の上で日々新作が書かれているのだから、過去の名作を読んでおくことは現在の新作を深く楽しむための前提条件である、というところに異論のある人は少ないのではないでしょうか。
しかし、作者の手を離れた小説を読むに当たって作者の意図が正確に伝わる必要はなく、読者には誤読の権利が常に与えられている、という文学論の一般的なテーゼがあります。この考えは基本的には正しいのですが、その場合、読者は自分の感想や評価が自分の中でも絶対的なものではないということを了解しておかなければなりません。なぜなら、作者が何らかの先行作を念頭において作品を書いたことが明らかな場合、読者がその先行作を知っているのと知らないのとでは、同じ人でも感想が変わってしまうからです。
例えばあるミステリ初読者が、綾辻行人の『十角館の殺人』を読んで、孤島の中で連続殺人が起こって誰が犯人かわからないまま皆が死んでいく過程が凄くサスペンスフルで面白かった、という感想を抱いたとします。しかし彼が『そして誰もいなくなった』を読んだあとにもう一度『十角館』を読み直すと、まったく異なる点に面白さを見出すでしょう。このように、読者が「面白い」と思うポイントは、彼がこれまでに積んだ教養に左右されるのであり、決して作品単体だけで決められるものではないのです。
他方で、別に『十角館』に前者のような感想を持ったままでも良いではないか、という反論もあると思います。これもそのとおりです。しかしそれでもなお、「孤島の中での連続殺人」とか「皆が死んで誰もいなくなる」というプロットに面白さを感じるのは、自分が持つ経験や知識、それにジャンルは異なっても他の小説やドラマから得た教養の集積があって初めて成立する感想なのです。すなわち、小説の読者は何らかの形で教養から自由になることは出来ないのであり、それならば作品をより多様な基準で楽しむために、積極的にジャンルの教養を積んでおく方が得策ではないでしょうか。
なんだか結論が出てしまったので、デメリットについて考察するのはまた後日、宿題にします。

参照:教養主義の挫折と再生 - 一本足の蛸