それにしても・・・

二階堂黎人氏の恒星日記で、東野圭吾『容疑者Xの献身』に関する問題提起がなされているのを見て、唖然としました。
要するに『容疑者X』は本格ではない、という主張なのですが、この人はもともとそういうスタンスをとっている人ですし、そういうことを言っても別に驚かないのですが、いくつかのポイントで信じがたい発言を行っているのです。
とりあえず、なぜ『容疑者X』が本格ではないのかという理由ですが、それについては次のように述べています。

これは、折原一さんの(限りなく本格推理に近い)ミステリーと同じで、読者が推理し、真相を見抜くに足る、決定的な手がかりを(作者が)恣意的に伏せてある(書いてない)からだ。これでは、(本格として)フェアとは言えず、したがって、本格推理小説としての完全な条件を満たしていないわけだ。

以下、私の反論を書いておきますが、あくまで私見ですので、私が納得できるような批判があれば撤回します。また、ネタバレは極力反転しますが、なんとなく真相が分かるかもしれないので『容疑者X』を読了した方のみ、以下を読んでください。
まず、『容疑者X』は、読者が真相を見抜くために必要な材料が事前にきちんと示されており、非常にフェアな本格ミステリであると私は考えています。『容疑者X』において隠されているのは、(反転)石神が工作を行った3月10日の記述(ここまで)だけであり、その部分が隠されていることはまったくアンフェアに当たりません。普通本格ミステリにおいて犯人がどのように犯行を行ったのかを直接示す描写は書かれません。なぜならそれを明らかにするのが物語の核心だからです。当たり前ですが。
そして東野氏はそれを行ったに過ぎない。そのことをもってアンフェアだと言うのであれば、二階堂氏も含めて誰も本格ミステリを書けなくなります。
では『容疑者X』の核となるトリックを見破るために、読者はどこに注目しなければならないか?
手がかりは無数にあります。この手のミステリの常として、読者は読書中不思議な感覚にとらわれます。なぜ、警察は母娘をあれ以上追及しないのか? なぜ、映画のチケットが検証されても彼女たちの犯罪は疑われないのか? なぜ、娘は友達に映画を見に行くこと予告できたのか? などなど。
そしてこれらの謎を解く手がかりは作中にちりばめられています。(反転)映画チケットの存在はもちろん、燃やされた被害者の衣服、パンクさせられた自転車(ここまで)など。こうした一見関連性の見当がつかない謎や手がかりを論理的に、かつこれしかないという説得性を持って組み立てた推理(湯川は控えめに「推測」と言っているが)が、あの真相なのです。
これが本格ミステリでなくて何なのでしょうか。『容疑者X』には最近の本格では味わうことのできない、非常に大きな『腑に落ちる感』がありました。『容疑者X』は情報を隠しただけの安易な叙述トリックではないのです。叙述トリックと見せかけながら、実は正統派のハウダニットなのです。
もしこれが本格でないのなら、例えば今年の作品で言えば、(おそらく二階堂氏が本格とは認めないであろう『神様ゲーム』『犬はどこだ』などを除いても)『ニッポン硬貨の謎』『弥勒の掌』『摩天楼の怪人』なども本格ではないことになります。
その『弥勒の掌』に関して、二階堂氏は次のように言っています。

さて、我孫子さんは、御自分の『弥勒の掌』の例を挙げてくれましたね。私は、「よくぞ、挙げてくれた!」と快哉を叫びました。そうなんです。『弥勒の掌』と『殺人者Xの献身』を比べることによって、私の述べたことの正当性がさらに強固になるのです。
弥勒の掌』は、紛うことなき本格の傑作です(ただし、探偵役の存立に関して一部瑕疵がありますが、そのことは我孫子さんに前に告げたし、別の話なので、ここでは述べません)。
何故、傑作かと言えば、結末まで読んで、探偵役の推理を読者が聞かせられた瞬間、冒頭からそこまでの物語が一瞬にして頭に甦り、あそこにも、ここにも、そこにも、そこら中に手がかりや証拠が埋まっていたことが解るからです。ありとあらゆる挿話や、登場人物の会話、何らかの示唆が、この結末を支えるために用意されていたことが解るわけで、その鮮やかさに、我々読者は舌を巻くことになります。そして、それこそが、本格推理小説におけるカタルシスの原動力だと私は思います。

要するに、『弥勒の掌』は作中に伏線が張ってあり、真相を知ってから見ると腑に落ちるので本格ミステリだということです。私見では、『弥勒の掌』こそ、読者の推理にとって必要な情報を意図的に作者の都合によってのみ隠し、真相を推理の結果ではなく演繹的に読者に提示するアンフェアな本格の見本のような作品だと考えています。あくまで私個人の感想ですが。
仮に『弥勒の掌』が優れた本格だとしても、「結末まで読んで、探偵役の推理を読者が聞かせられた瞬間、冒頭からそこまでの物語が一瞬にして頭に甦り、あそこにも、ここにも、そこにも、そこら中に手がかりや証拠が埋まっていたことが解る」のは『容疑者X』についても同様ではないですか。二階堂氏の主張には一貫性がなく、論理的ではありません。これでは単なる「友達」である我孫子氏への贔屓の引き倒しです。
もうひとつ、決定的に二階堂氏の理解能力を疑わざるを得ない発言があります。二階堂氏は鼻高々にこんなことを言っています。

あれから、ネット書評をいくつか読んでみたが、誰も、『容疑者Xの献身』の本当に真相に気づいていないようだ。もちろん、それは、東野さんが、『どちらかが彼女を殺した』のように、真相をあえて書かなかったものだろう。つまり、たいていの人は、湯川の「想像」を真相だと思っているようだが、あれはあくまでも「想像」であって、真相ではないのである。東野さんは、別の真相を、あの物語の中に巧妙に隠してあったわけだ。私はそう推察する。

二階堂氏の言う本当の「真相」なるものがどのようなものであるかは、完全にネタバレになるので詳しい引用はしませんが、「恒星日記」11月28日を参照してください。私ははっきり言ってまったく納得ができません。二階堂氏の推理は、自分の推理に都合の良い記述を作者の思惑も無視して勝手に解釈し、想像を膨らませたものに過ぎません。これこそ独善的というべき主張でしょう。二階堂氏への反論としては、ではなぜ石神は毎日弁当屋に行っていたのかと問うだけで十分です。
自分以外の誰も支持しない意見が「真実」であると主張し、その「真実」を理解できないものは愚か者だと言わんばかりに人を見下す態度には吐き気すら覚えます。なんという愚かしい行為でしょうか。好きなだけ論争して、自分の意見が絶対ではないことを認識して欲しいものです。