大津留厚『ハプスブルクの実験』

ハプスブルクの実験―多文化共存を目指して (中公新書)ハプスブルクの実験―多文化共存を目指して
ハプスブルクの実験 多文化共存を目指して

 「ハプスブルク」といえばシェーンブルン宮殿に代表される華麗な宮廷文化、マリア・テレジアマリー・アントワネットなどの皇室の女性たちが有名だが、歴史研究の場では、ドイツ人以外に10もの言語集団を抱えた多民族帝国の実態に注目が集まってきた。
 そうしたハプスブルク帝国への関心は、第一にヨーロッパ統合という国民国家の枠を超えた地域統合が進む一方で、旧ユーゴスラヴィア紛争に代表される多民族共存の崩壊という事態に直面して、ネーションの問題をどのように克服すべきなのかという問題意識から来ている。多民族共存国家としてのハプスブルク帝国は、どのようにしてその国家体制を維持することができたのか?
 本書は90年代以降のそうしたハプスブルク帝国に対する関心に応える、日本における先駆的な研究だ。1867年、普墺戦争の敗北を受けて、ドイツ人を中心とするオーストリア帝国ハンガリー王国とが同君連合という形で同等の政治的権利を持つことが取り決められた「アウスグライヒ」以降のハプスブルク帝国の実態を描いている。その内容は、政治制度、民族統計、行政、軍制、教育と多岐にわたっている。
 本書によれば、多文化共生を可能にしたのはハンガリー人とのアウスグライヒだけでなく、オーストリア憲法の第19条に定められた民族平等原則が、実際の政策の隅々にまで適用された結果だということになる。ハンガリー人、チェコ人、スロヴァキア人、ポーランド人、ルーマニア人、イタリア人、クロアティア人といった様々な民族集団全てに細かく配慮し、文字通り「妥協(アウスグライヒ)」を重ねていくことによって、ハプスブルク帝国は1967年から第一次世界大戦前夜に至るまで、平和な多民族共存国家を作り上げていったのだった。地域の民族分布状況に配慮した選挙制度や学校設置問題への取り組みは、本当にくらくらするほど複雑で、よくここまで細やかな政策ができたものだと驚く。
 一方、こうした多民族国家ハプスブルク帝国を崩壊させた要因を、著者は第一次世界大戦によって生じた「総力戦」に求めている点も興味深い。ネーションの問題において総力戦は、国民を戦争という一つの目標に向かって動員し、統合していく過程として描かれるが、オーストリアの場合には、ドイツとの同盟関係のために、国家イデオロギーがドイツ民族主義として現れた。その結果、他民族の同権に配慮することが困難となり、帝国は崩壊したのだった。ここでは、多民族共存の障害となったという意味で、総力戦体制の歴史的意義を国民統合とは別の視角から問い直す歴史的事例を与えてくれるのである。