田村栄子・星乃治彦編『ヴァイマル共和国の光芒』

ヴァイマル共和国の光芒―ナチズムと近代の相克

ヴァイマル共和国の光芒―ナチズムと近代の相克

 日本におけるヴァイマル共和国研究の決定版、とも言うべきものが出た。もちろん本書は専門書であって、概説書とか通史ではないから、まずヴァイマル共和国とナチス・ドイツの歴史について一通り知っておかなければならない。
 それでも私が「決定版」とまで言うのは、本書が、現代におけるヴァイマル研究が持つ論点を非常に明確に提示しているためだ。それは「近代」をめぐる問題であり、「リキッド・モダニティ」の世界に生きる21世紀の我々にとっても無縁ではなく、また学会では現在進行形で論争が展開中である。
 ヴァイマル共和国は、ヒトラーの政権掌握によって事実上崩壊するのと時を同じくして歴史的評価がほとんど定まってしまった。つまり「ヴァイマル共和国はヒトラーを生み出した」という評価である。したがってヴァイマル研究は、なぜ「世界で最も民主的」といわれたヴァイマル憲法を持ちながらも、ナチズム体制という非民主主義的で非人道的な政権へと帰着してしまったのか、という論点に集中することになった。そこから例えばドイツ革命の失敗に着目したり、ヴァイマル憲法の大統領緊急権を問題にしたり、ヴァイマル議会制民主主義のそもそもの構造的脆弱性を描き出したり、反ヴァイマル勢力と結びついた独占資本とナチズムの同盟を問題にしたり、あるいは1848年以降のドイツ民主主義の「特殊な道」が指摘されたりした。
 近年においては、デートレフ・ポイカートの『ワイマル共和国―古典的近代の危機―』に触発されて、ヴァイマル共和国=「古典的近代」が持つアンビヴァレントな性格から、例えばヴァイマル共和国の医療や社会政策といった現代的要素の中に、「優生学」や「社会国家」「民族共同体」といったナチズムに結びつく要素を見出す研究が注目を浴びてきた。川越修他編『ナチズムのなかの20世紀』がそれだが、こうした研究は、ヴァイマルからナチズムへの連続性の主張と、ホロコーストに帰着する「近代」への否定的評価につながる。この場合、ヴァイマル共和国の「近代」が問題となるのは、それがナチズムを生み出す源泉となったため、ということになる。
ナチズムのなかの20世紀

ナチズムのなかの20世紀

 こうした立場に対して本書では、同じポイカートの影響を受けながらも、「近代」のナチズムに至るネガティヴな側面のみを強調するのではなく、まさしく「近代」のアンビヴァレントな側面、つまりナチズムに至る要素だけでなく、複数の価値観や可能性が混在した状態としてヴァイマル共和国の「近代」を捉えなおすという立場を取っている。本書の「はじめに」では、本書の課題について次の2点を挙げている。

 まず第一に本書は、ヴァイマル共和国をナチス第三帝国の単なる前史として見、その連続性を強調する近年の日本における研究に対する批判を出発点としている。本書においては、ヴァイマル共和国は、結果として第三帝国に行き着くとしても、そうではない方向をもあわせもった、他に類例を見ない固有性を有した時代として、またそれが放っている「光芒」は今日においても色あせていないという評価のもとに描出される。第二に本書は、近年の歴史学において論争的なテーマとされている「国民国家」問題および「近代」問題に対して、ヴァイマル共和国を一国史ではない国際的視野と今日的視点から再検討することで応えようとするものである。(i頁)

 極端に言えば、「近代」の価値をナチズムへの連続性によって相対化しようとする立場をポストモダニズム的立場だとすれば、ヴァイマル共和国の固有性によって「近代」に対峙しようとする本書の立場は、明確にモダニズムの立場に立っているといえるかもしれない。「近代」の普遍的価値を相対化してきたことで価値喪失の状態に陥っている現代世界だからこそ、「未完のプロジェクト」としての「近代」を、否定するのではなく批判的に直視しなければならないということなのだろう。
 内容についてはまた後日。