田村栄子・星乃治彦編『ヴァイマル共和国の光芒』(その2)

 というわけで内容について。本書は6名の執筆者による論文集で、全部でIII部9章から成っている。

 序章 ヴァイマル共和国研究史―「ナチズムと近代の相克」の視点から―(田村栄子)
第I部 「国民国家ヴァイマルの実相
 第1章 国民国家・地域・マイノリティ(伊藤定良
 第2章 民族自決とマイノリティ―戦間期中欧民族問題の原典―(相馬保夫)
 第3章 フォルク(Volk)と青年―マイノリティ問題とドイツ青年運動―(川手圭一)
第II部 ヴァイマル・モデルネの展開
 第4章 「モデルネ」のコンテクスト―バウハウスをめぐって―(星乃治彦)
 第5章 ヴァイマル・モデルネをめぐる相克―都市ヴァイマルを事例として―(熊野直樹)
 第6章 医の既存世界に対抗する社会主義医師協会―「全保険制度の社会科」と反ナチズム―(田村栄子)
第III部 ヴァイマルの危機と反ファシズム
 第7章 暴力・街頭・抵抗(星乃治彦)
 第8章 共和国最後の選択肢?―シュライヒャー内閣の国家非常事態計画再考―(熊野直樹)
 第9章 ヴァイマルの残照―反ナチ抵抗運動の戦後ドイツ・ヨーロッパ構想―(相馬保夫)

序章 ヴァイマル共和国研究史―「ナチズムと近代の相克」の視点から―(田村栄子)
 序章は田村栄子氏による渾身のヴァイマル共和国論。実に熱い。まず本書で用いる「近代」(モデルネ)概念について、ポイカートの論を引きつつ、従来ポジティヴに理解されてきた「近代」の、ネガティヴな面にも目を向けて、それへの批判も含んだアンビヴァレントな概念として定義している。
 ではなぜ今ヴァイマルの「近代」を問題にするのか。19世紀に登場し20世紀に花開いた「第一の近代」を「ソリッド・モダニティ」とすれば、現代はジークムント・バウマンがいうところの「リキッド・モダニティ」(個人と集団の関係が融解し、人間生活の隅々まで不安定となった状況)=「第二の近代」の時代であり、ヴァイマル共和国にはその「リキッド・モダニティ」的状況が登場し始めていたという。そこでヴァイマルだが、田村氏は次のように述べている。

 …ヴァイマル時代は「前近代的なもの」も残存し、ドイツにおいてはバウマンの言う「ソリッド・モダニティ」は花開こうとせんばかりであり、諸政党は強く自己主張した。そうした中に「リキッド・モダニティ」的状況が流れ込んだのである。「近代」という論点から見れば、前近代(プレ・モダン)と近代(モダン)と後近代(ポスト・モダン)が入り乱れていた。

 このような複合的・多元的でアンビヴァレントな状況がヴァイマル共和国の「近代」であり、ヴァイマル共和国の固有性を示すとともに、現代の「リキッド・モダニティ」的状況の古典的出現の時期として、現代世界の理解にも資することになる。このような「近代」理解が、本書の全編を貫いている。そういう意味で、論文集であるにもかかわらず一体感のある完成度の高い本だといえよう。
 さらに田村氏は、ヴァイマル共和国研究史をナチ政権時代における「亡命ドイツ知識人」の議論にまで遡って叙述する。なぜ亡命ドイツ知識人の議論が重要になるのかというと、彼らは一様にヴァイマル共和国の崩壊とナチズムの台頭を身をもって経験し、それを受けた徹底した自己批判を展開したためである。彼らのヴァイマル共和国への憧憬と自己批判には、ヴァイマルの多様な状況に対するヴィヴィッドな視点があり、まさにヴァイマルの「光芒」を見て取ることができるということだろうか。
 こうした視点から、田村氏は戦後のヴァイマル研究を、それぞれの時代状況を踏まえつつ整理する。特にポイカートに影響を受けた日本における「近代の病理」論からのヴァイマル研究に対しては、非常に痛烈な批判を展開している。ヴァイマル共和国をナチズムの単なる前史としてしまったとしてこれらを批判し、近年のドイツにおけるヴァイマル研究が、共和国を「多元的社会開始の「古典的近代」と受け止める傾向が強い」として、これを積極的に評価している。
 本書全体の論稿をひと束にまとめることを意識したのか、非常に骨太のヴァイマル共和国論になっていると思う。論争的だからこそこれだけ力が入ったのだと思うが、それと同時にアクチュアルな課題にも言及しているところが凄いと思う。スケールの大きな論稿で、いろいろと考える前に圧倒されてしまった。続きます。