ワトソン役の多様性

本格リングから拾い読みして興味深かったテーマに、いまさらながら言及してみます。
「ワトソン役」考 - 積読自慢はカッコワルイと思います。
dunkershigh氏が言うように、現代本格においてはキャラクター性が強調されるケースが多くなったために、本来無個性である*1はずのワトソン役の個性が際立ち、本格ミステリの構造が崩壊するパターンが多く見られます。その場合、ワトソン役が読者に対して正確な情報を提供し、フェアプレイという本格ミステリの原則を保障するための装置(個人的研究 『ワトスン役』 と 「本格」 について | Pの食卓)、あるいは「サプライズ効果」を生み出すための有効な装置(『ワトスン役』の視点で書く利点 ~「フェアプレイ」と「サプライズエンド」の両立 | Pの食卓)として機能するというP氏の見解に当てはまらないワトソン役が登場することになります。
最も典型的なのは京極堂シリーズの関口巽麻耶雄嵩の某ワトソン役でしょう。前者は正確な記述者というワトソン役の機能を完全に放棄し、現状認識が不完全な、しかし一切嘘は書いていないという読者にとってきわめて不安の多い記述者になっています。『姑獲鳥の夏』に対してアンフェアだとする見解があるのは、ワトソン役がその古典的な役割を放棄しているためだと思われます。
後者は探偵がワトソン役に対して常に知的優位にあるという前提を逆手に取ったものです。ここで詳しく書くことはできませんが、倒錯的な印象を読者に残します。
こうしたワトソン役の個性化によって本格ミステリの文法にどのような現象が起こったのか、これが問題です。
京極作品の場合、フェアプレイは守られていると考えることも可能で、それは記述者が一切の嘘をついていない上に、地の文において推理を行うためのツールは提示されているからだ、ということになります。しかしもちろん通常のロジック・ミステリであるはずもなく、読者は人間の常識的認識論を打ち破らなければ、京極が提示するテクストの読み方を理解できないという仕組みになっています。他方で、麻耶作品では名探偵の特権的地位に対する挑戦を、小難しい理論や事件性によってではなく、ワトソン役にこれまでとは違った役割を付すという設定変更だけで成し遂げたのです。
本格ミステリの認識論的転回も後期クイーン論も、京極・麻耶両作品の登場以前から存在している命題です。本格ミステリに特有の自己言及性をラディカルにとことん突き詰めようとする場合、たいていはフェアプレイや謎解きの要素を放棄してメタ・ミステリに向かう作品が多かったようです。しかし上記の作品は「ワトソン役の機能転化」だけでそれらの問題に鋭く切り込む作品を書きえた。
すなわち、新本格におけるワトソン役の多様化は、本格ミステリにおける自己言及性の小説的表現を豊かにすることに寄与した、といえます。
もちろん、このように変なワトソン役だけが新本格に登場するわけではなく、例えばキャラクター性をもたされた女性ワトソン役がたいてい探偵役と恋に落ちたり、叙述トリックの駒として利用されたり、ビルドゥング・ロマンの主人公として探偵役に導かれて人間的成長を遂げたりと、本格ミステリの表現・物語性を豊かにするに当たって、多様なワトソン役が大いに利用されている、というのが現状ではないでしょうか。

*1:ちなみに、最も無個性なワトソン役はヴァン・ダインだと思う。ヴァン・ダインは一連のファイロ・ヴァンスものに登場して、ワトソン役として常にヴァンスとともに行動しているはずなのに、文中にはほとんどその人物が見えない。登場人物も彼を無視している。フェア・プレイに徹するために、ヴァン・ダインはワトソン役の個性を完全に消し去り、ただ記述者としてのみ彼を存在させているのだ。小説表現としてかなり異様だといえるが、本格ミステリの様式性やフェアプレイの問題を考える際に、ヴァン・ダインについて考えるのは有益かもしれない。