小林多喜二『蟹工船』を読みましたよ

蟹工船・党生活者 (新潮文庫)

蟹工船・党生活者 (新潮文庫)

蟹工船 一九二八・三・一五 (岩波文庫)

蟹工船 一九二八・三・一五 (岩波文庫)

 社会現象的ブームになっているという『蟹工船』、家にあったので読んでみました。岩波文庫版です。売れているのは新潮文庫版らしいです。
 とりあえず一気読みの面白さでした。劣悪な条件で死に直面するほどの過酷な労働を強いられている蟹工船の労働者たちが、「殺される」以外に選択肢がないところまで追い詰められた末に、ストライキを実行するに至る過程を描く、まがう事なきプロレタリア文学です。
 とにかく読ませる。雑夫たちが狭く汚い空間に押し込められて何とか生きている様は思わず顔をしかめたくなるリアルさがありますし、資本主義の搾取する者の権化とも言うべき「監督」に対して、つもり積もった恨みや不満をいつ彼らが爆発させるのか、ぎりぎりのところまで忍耐を迫られる描写には、読んでいるこっちがドキドキするような切迫感があります。
 よく言われるように、『蟹工船』が現在のワーキングプアの環境と重なり、共感が広がる中でブームが起きているというのは、実際にこの本を読んでみればよく分かります。確かに『蟹工船』で直接ピストルを振り回すような「監督」は、現代日本ではありえないし、国家と資本家が結びついているといっても、軍国主義ではないのだから軍と資本家が結びつく『蟹工船』の状況と今とは訳が違います。また、国際環境についても、ソ連が産声を上げ万国の労働者に希望を与えた1920年代と、冷戦が資本主義陣営の「勝利」によって終焉しソ連に対する労働者の幻滅が広がった現代とでは全く違います。
 では、『蟹工船』のどこに現代性があるのか。言い換えれば、時代性にとらわれない普遍性がどこにあるのでしょうか。
 小林多喜二共産党員で戦前に拷問によって殺害された正真正銘の社会主義運動家です。私が興味深かったのは、だからといって『蟹工船』がソ連共産主義イデオロギーに染まっただけの作品ではなく、彼なりの社会主義運動のあり方が書かれた小説だったことです。
 それはストライキの最終局面です。もしソ連共産党プロパガンダ小説であれば、少数の指導者によるストライキが成功して幕を閉じるところですが、この小説では指導者によるストライキは失敗し、労働者はさらなる苦難を経験した結果として、誰を指導者とするのでもない集団的行動によってストライキが成功する、という結末を迎えます。
 要するに高度に発展した資本主義の支配=搾取関係から労働者の団結・連帯が必然的に発生するというプロセスを描いたということです。蟹工船の労働者にとって、共産主義イデオロギーなどはきっかけに過ぎず、現場での過酷な死に至る労働をなんとかしなければならないという、切実な生存要求こそが状況を打破する可能性を与えるのだ、と私は読みました。
 そこにこそ、時代にとらわれない『蟹工船』の普遍性があると思います。
 しかし逆に言えば、そこまで過酷な状況まで追い詰められなければ現状を変えることはできないのか、とも思います。今『蟹工船』がワーキングプア層の共感を呼んでいるとのことですが、共感を呼ぶほど現状が酷いということです。本当はそんな状況が来る前に何とかしなければならなかったでしょう。新自由主義の弊害がどれだけ言われても、ナショナリズムの幻想に踊らされ続け、小泉内閣を支持し、大企業の歯車を余儀なくされ、社会保障が削り取られ、社会的に切り捨てられる人が増え続けました。しかしそろそろ、「社会」の価値を重視する左向きの振り子が働いてもいいはずです。
社会 (思考のフロンティア)

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